日本人が数学、特に統計学の勉強に時間を費やすのは、とにもかくにも正解欲しさのためです。もちろん統計を勉強していた方が就活には有利だからもあるでしょうし、金融のデータ分析などができれば億単位の金が稼げるからもあるでしょう。しかしそういった些末な欲は、結局「いい会社に就職したい。資本主義社会で成功したい。」という正解欲しさにつながります。この正解を求める本能は生物としての人間の本能に根差したものなので、私としては否定しないどころか肯定派です。
さてその統計ですが、確かに威力は絶大です。個人的にも統計(というか数学)ができるからこうして一丁前にデータ分析の仕事にありつけましたし、現場でもその威力に驚かされてます。文科省も遅ればせながらその力に気が付いたようで、統計学に関する資格なんかも増えましたし、少し前からは中学1年生に統計が必修となりました。センター試験においても出てくるようになりましたし、2020年の教育改革においても中心となることが予想されます。
ところが、文科省の努力もむなしく、このカリキュラムは成功しないでしょう。それは数学のカリキュラムの中に統計学を無理やり入れて、しかも別個に教えるからです。私の時は確率でしたが、数ⅠAの中に、ある時いきなり確率が入ってきました。そして何事もなかったかのように数Ⅱに入っていき、二度と出てきませんでした。大学受験になってまた確率をやり直す羽目になり、しかもそれはほぼほぼ暗記問題なので記憶にとどめ続けなければなりませんでした。おそらく世の高校受験を迎える中学生も同じ目にあっているでしょう。相対度数ってなんだっけ?とね。このいびつともいえるカリキュラムの背景には教授たちの縄張り争いがあることは想像に難くありません。
じつは、こういった縄張り争いにおいて統計学(ないしはそれを築いた人たち)はいつも割りを食ってきました。フィッシャーという研究者もその1人です。母集団の概念を提唱し、当時学会でハバをきかせていたピアソンは、若きフィッシャーの書いた論文が理解できなかったようです。ここまで読んでいただいたなら、ピアソンがどういった処置をとったかも予測がつくでしょう。学会を追われたフィッシャーはその後めげずに農学分野に取り組み、今日の統計学(推定など)の基礎を作っていきます。
このように、歴史を紐解けば統計学の中ですら派閥争いが起こっていることは明白で、さらには数学の中ですら統計学全体を村八分扱いしていたことも見て取れます。そのアカデミアの派閥争いが、教科書内での派閥争いにつながっていくのです。
私たちが統計に苦労する理由、それは歴史とカリキュラムにあるのです。