池上さんと佐藤さんの共著、「大世界史」を読みました。日本が誇るインテリジェンス二人の対談で、教育にも言及されていたのでメモ。
教育と国家は切っても切れない
そもそも世界史の本でなぜ教育が語られているかというと、「教育と国家には関係がある」から。帝国大学はもろ国家のための大学ですし、世界の大学も教育基本法のプリンシプルで運営されています。ですから国家を語るなら必然的に教育の話にもなります。
国家による言語介入についても触れられてます。本書では、ロシア革命前後で使われなくなった言葉の存在や、明治維新前後で明治以前の言葉がわからなくなった例が取り上げられてます。こういったことがどのでも起きているんだなーと。
日本語で授業こそ特権
2人の立場で面白いのが、「授業は日本語でよくない?」という意見。
以下引用ですが
「英語で伝えた場合、日本語で伝える場合の何割くらい伝えられますか」と尋ねると、「2割くらい」と言います。
「学生の理解は日本語のときの何割か」と尋ねると、「二 割くらい」 と言います。 3割かける2割 で 6%、 つまり、 日本語での授業に比べ て、 6% しか伝わらない講義をして、 それをグローバリゼーションと言って いる。 こんなことを真似る必要はありません。
(引用終わり)
伝わらなきゃ意味ないし、意味もなく大学ランキングの上位を目指してもしょうがない、と。
大学ではリベラルアーツを
話は大学論に発展していき、新自由主義の名の下にエリートのナルシスト化が進んでいくことに警鐘を鳴らしています。ここでいうエリートのナルシストとは
「民衆を軽蔑して個人の利益増大に関心を集中させる人」
のこと。これが行き過ぎると他人に無関心な程度の低い文化圏ができてしまうぞとなります。これだとニッチも行かなくなりますね。
かといって逆ブレして、
「学問なぞ要らん!」
となってしまうのが反知性主義。この代表が某総理や某知事だと。これまた問題です笑。
そのための教養だ!そのための世界史だ!
というのが主張のようです。そのため本書では、
「学部のうちはしっかりと教養をつみ、専門は大学院で」
という立場を取っています。まあイギリスのエリート教育って教養をめちゃくちゃやらされるんですよね。2人の慧眼には驚かされます。
最後に
というわけで本書のごく一部の紹介でしたー
ここがメインでなく、ビリギャルにも話が及んでて、読んでて楽しいです。